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あれは中学三年の残暑厳しい九月のことだ。

「ねぇ、もう…いい?」
「だーめ!晶馬くんに我がクラスの命運がかかっているのよ!!」
教室で女子数名に囲まれて、見様によっては羨ましいシチュエーションなんだろうけど、ドアの隙間から遠巻きに覗く男子は皆一様に同情のまなざしを僕に向ける。

「うーんと可愛くしなきゃ♪」
「チークはこっちの色のほうがいいかなぁ…」
「ね、ね、カチューシャ付けたほうが可愛くない?」

僕を囲む女子は目をキラキラさせて次から次へと化粧品やアクセサリーを鞄から取り出す。
教科書は平気で置いて帰るくせに、なんだって勉強に必要ないものはそんなに持ってるんだろう……そんなことをぼんやり思っていると、僕の正面に座っていた三崎さん(クラスの女子の中でも見た目が派手で、目立つ存在だ)が、「最後の仕上げ」と言って唇に筆のようなもので何かを塗った。
彼女が普段同じように使っているのなら、これも一つの間接キスなのだろうか。少し鼓動が速くなる。
近くの女子に手鏡を渡され、そこに映る自分に驚いた。
長い髪、ピンク色の頬、ツヤツヤの唇。知らない女の子がそこにはいた。

――どうしてこんなことになったのか。それはこの日の朝に遡る。

「えっ、ミキ来れないってどういうこと!?」
「具合が悪いって先生のとこ連絡行ったみたい。でも昨日見たっていうコがいて…」
「何を?」
「…冠葉くんに振られるとこ」

聞くつもりは全くなかったのだが、たまたま耳に入ってしまった。そして聞き慣れた名前も。
僕の双子の兄、高倉冠葉は僕とは正反対の性格で、料理以外はなんでもソツなくこなす、自慢の兄貴だ。
二卵性の遺伝子はいじわるなもので、中学に入って声変わりをした兄貴は低くてかっこいい声になったというのに、僕はそれほど変わらず、身長も向こうのほうが高い。
中学に入ってからは女子が度々「冠葉くんに手紙を渡してほしい」なんて頼みごとに来て、一瞬でも自分にと勘違いした自分が恥ずかしかった。
兄貴はモテる。当然のことだ。それをやっかむ気持ちなんて微塵もない。
確かついこの間も兄貴とクラスの女子が付き合い始めたとかで誰かが騒いでいた気がする。
なので今聞いてしまった話も珍しいことではないのだが、頭の中を徐々に整理する内に、それが一大事だということに気が付いた。
“ミキ”って、高科さんの下の名前だ。高科さんは今日僕らのクラスが文化祭でやる劇のヒロイン役の女の子だった。
「ヒロインが当日いないなんて、どうしよう…」
「今からミキの家行って説得しても来るかどうか…。携帯かけても全然繋がらない」
「そんな…みんな一生懸命頑張ってたのに…」
委員長が泣きそうな声で呟く。高科さんと仲がいい三崎さんが困惑の表情を浮かべた。
そんな彼女たちを横目で見ていると、ふと三崎さんと目が合った。
恥ずかしくなってすぐに目線を外した僕を三崎さんが見つめる。
「いた。うってつけの代役」
代役が見つかったなら良かった、と胸を撫で下ろしていると、三崎さんが僕が座る席の前に立ってこう言った。
「高倉晶馬くん!確か今回脚本書いたの晶馬くんだよね!?お願い!ミキの代わりに劇に出て!!」
「劇に…代わりに…って、えぇーーーー!!?」

***

人生は何が起こるかわからない。
鏡に映った自分を見てそう思っていると、教室のドアを威勢よく開ける音がした。
「こっちも自信作だよ!じゃあ王子様、お姫様とごたいめーん!!」
少し遅れて教室に姿を現したのは王子様の格好をした兄貴だった。
マントがこんなにもサマになる十代が他にいるのだろうか…そう思えてしまうほど、兄貴の王子姿は違和感がなかった。
「お前、晶馬か?」
そう聞かれて我に返った。見とれていたワケじゃない。
「そ、そうだよっ!悪かったね、相手役が女の子じゃなくて!」
「いや、意外と可愛いな。お前」
さらっと兄貴がそう言うと、キャー!と一部の女子が黄色い悲鳴を上げた。
「なななに言ってるんだよ!ほら、時間ないんだし練習するよ!!」
生まれた時からずっと一緒にいて、“可愛い”なんて初めて言われた気がする。陽毬にはよく言ってるけど。
とにかく今は劇に集中しようと台本をめくる。大丈夫。元の話を要約した簡単な台本で、書き直したのは自分だから大体の流れは頭に入っている。台詞は多少違っても周りがアドリブで合わせてくれることになった。
「よし、ここまでの流れは大丈夫そうだね。じゃあ最後のシーン行ってみようか!」
委員長がそう言い終えたタイミングで
「おい、そろそろ出番だぞー」
と、体育館の偵察に行っていた男子生徒が呼びに来た。
「え、もう!?でもまぁ、ここまできたらあとはなんとかなるわね!頼んだわよ、高倉兄弟!!」
そう肩を叩かれ、僕の心拍数は徐々に上がり始めた。
みんなのためにと劇に出る覚悟をしたわけだが、そもそも人前で何かをするなんて僕が最も苦手なことじゃないか。
台本を握る手が小刻みに震える。周りの音が遠くなる。どうしよう。ほんとに出来るのかな…?

「晶馬」

遠くなっていた意識が呼び戻される。
「大丈夫か。顔が青ざめてるぞ」
僕はこの有様だっていうのに、兄貴はいつも通りの涼しい顔だ。
「だ、大丈夫だよ!なんか女の子の格好したらいつもと違う自分になれたっていうか…へへっ」
心配かけまいと必死の作り笑いを浮かべた。
そんな僕をじっと見て、兄貴は深い溜息をついた。
「ちょっと来い」
「えっ、もうすぐ本番だよ?」
「すぐ終わる」
僕の手を引っ張って、兄貴は教室を出た。

***

「ねぇ、急がないとみんな心配するよ…?」
人気のない廊下に連れ出され、時間を気にする僕に兄貴は一言こう言った。
「無理してないか」
「…え、」
ドキリとした。無理してないと言えば嘘になる。
「お前のことだ。三崎と委員長に頼まれて断れなかったんだろ」
「でも、みんな今日まで頑張ってきたわけだし…高科さんの代わりに僕って、彼女に申し訳ないとは思うけど、僕なんかでも役に立てるんだったら…」
「高科が今日いないのは俺のせいだ」
その言葉にさっきの会話を思い出す。

『…冠葉くんに振られるとこ』

噂は本当だった。今の兄貴の言葉が物語っている。
「だから、お前が無理する必要はない」
なぜだろう。その言葉が僕には「お前には関係ない」と言われているような気がして胸が痛んだ。
「…やるよ」
「…いいのか。苦手だろ、こういうの」
「正直いうと、ちょっと嬉しかったんだ。“晶馬くんしかいない”って言われて」
不安とはベクトルの違う本音が零れ出た。
そう、僕は嬉しかったんだ。自分が必要とされたことが。
「…そうか」
兄貴が額をぶつけてきた。お遊戯会の時も、運動会の時も、僕が不安で泣きそうになっている時によくしてくれる。
こうすると、不思議と心臓の鼓動が落ち着いていく。
「いいか、俺も一緒に出るんだから大丈夫だ。心配するな。必ず上手くいく」
「うん。信じるよ」

***

幕が上がる。ライトが予想以上に眩しい。僕はなるべく客席のほうは見ないようにして演技をした。
なんとかリハーサルでやったところまでを終え、最後のシーンの準備を舞台袖でしていた時だ。
「なぁ、この脚本お前が書いたんだよな」
兄貴がそう訊いてきた。
「そうだけど…どうかした?」
「いや、最後のシーン、再会した二人が手を握り合って喜ぶ…っていまいち盛り上がりにかけるなぁ、と」
「そう?でも花火上げたりはできないし、紙ふぶきも片付けが大変じゃん」
「いや、そういうことじゃなくて…」
BGMが流れた。出番の合図だ。話の途中だったが、僕たちはステージに戻った。
悪い魔女を倒した王子が、囚われのお姫様を助け出し、再会する。二人は言葉もなく歩み寄り、手を握り合って幕が閉じる…はずだった。
「…高科よりも、お前のほうがずっと可愛いな」
兄貴が僕の手を握りながら小声で耳打ちする。またからかって、と僕は怒ろうとした。すると
「今日頑張ったご褒美だ」
唇になにかが重なった。柔らかい、なにか。

――それは化粧の仕上げの時に触れた筆よりも、僕の鼓動を速くさせた。




【fin】

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